「 駅で風船貰っちゃったから、今日は学校サボることにしたっ!」
あらかじめ用意された結論に、取って付けたような理由
理屈などお構いなしに2つを結びつけるそれを
“ 若さ ”と呼ぶのかもしれないし
或いは “ 生きること ” そのものなのかもしれない
頬と鼻頭をほの赤く染めて現れた君は
12月の澄んだ光を小さく胸に吸い込んで
白い吐息に変えた
駅へと向かい足早に坂道を下る人々の間を
赤い風船片手に逆走する
1日限定の “ 不良 ”
東京の空はいつも狭いのに
登り坂の向こうに見上げた真冬の空が何処までも高くて
ふいに頭をかすめた
この世界の広さ
肌を刺すような冷たい空気の中で
冬の柔らかな光が君の血をあたためて覚えた
生きる歓び
あたらしい世界
地表に降りた霜柱を
嬉々として踏み鳴らしたその足は
はじめて踏み入れる世界の中を
つまずいたり
転んだり
立ち止まったりしながら
前に進む
そうやって歩き続けているうちに
かつてあたらしかったものは
いつしかその煌めきを失って
居酒屋でグラスを片手に頬を赤らめた君は
この社会の不条理を嘆いたり
将来を憂いたり
「 あの頃 」に思いを馳せたりなんかもして
あれから幾たびの冬を繰り返して
街は変わった
人も変わった
ただ変わってゆくということだけが
変わらない
だけど
変わることは消えることではなくて
君が生きた時間は
確かに君の中に息づいている
君は覚えているだろうか
冬の光に優しく抱かれ
揺られて
ほつれて
流されながら
自由に空を泳いだ
いのちの 赤い輝きを
( teens 「 本間愛波 01 」より )
家の周りを歩いていると、至る所で目にする顔。
意志を持った強い眼差しは、昼も夜も、雨の日も風の日も
いつも黙ってこちらを見つめている。
人々の生活圏において、ある種無差別的な暴力性を帯びて
視界に飛び込んでくる政治家達のポートレイトは
その高尚なイデオロギーも安穏と流れる時間に飲み込まれ
もはや日本の「 景観 」を構成する一要素だった。
( personal work 「 TAKAKU Portrait 」より )
別れというものは唐突にやってくる。
いや、本当は唐突でも何でもなくて「用意されていた結末」に「きっかけ」が与えられただけなのかも知れない。
「何でも言い合える関係」の成立要件とは一体何なのだろう。諸先輩方は「結婚は我慢だよ」と口を揃えて言うが、「我慢」と「諦め」はコインの表裏な気がして、頭では理解出来るものの腹の底で納得出来ている訳ではない。誠実な人間関係とは、相手を尊重するとは本当にそんなものなのだろうか。
それまでバラバラの方向を向いていたベクトルを揃えるのも大変だが、向きを揃えて進むという作業はその比ではない。ベクトルの長さが揃わないという経験は嫌と言うほどしてきたが、有効なマニュアルは未だに確立出来ていない。
なんて。結局何が言いたいかと言うと、おはぎは粒あん派です
近年のSNSの普及により、WEB上には「公開されることを前提(目的)として」撮影された
と思われる写真が氾濫している。また、かつては特別な技術であった写真の加工は、
今やスマホのアプリケーション一つで誰でも手軽に行える様になり、「より良く見られたい」
という人の欲望はある種盲目的とも思えるレベルの加工を無抵抗に受容させ、
現代における写真はそれまでの「記録性」に加えて「理想化」という役割を広く担うようになった。 これは言い換えれば、もはや人々が写真に「真実」を求めていないということを意味する。
我々はこれまで過去に撮影した(された)写真を参照することで、脳内で曖昧になった過去のイメージ(現実)に鮮明な輪郭を与えてきた。しかし、「理想化」された写真の蓄積は
記憶の不完全性と絡み合うことで「あたかも本当にそう(現実)であったかのような」錯覚を
人々にもたらした。こうして写真は「記憶の補完」に留まらず大衆レベルで「記憶の書き換え」を
誘発する道具となった。
ここに於いて各人の「理想の世界」は「現実」のものとなる。
( personal work 「 Ideal World 」より )
誰でも一度は見たことがあるかもしれない、カナダの脳外科医ペンフィールドのホムンクルス(こびと)のからだの各部分の大きさは、大脳皮質運動野、体性感覚野の相当領域の面積に対応する形でそれぞれ描かれている。その姿は顔(目、口)と手がアンバランスに発達した化け物のようであるが、人間の身体の中でも非常に多くの神経細胞がこの2カ所に集中している(重要性が高い)ということが分かる。
さて、私たちが「自分」と言う存在を客観的に認識するのに最も確実な手段は、視覚によって自己を認めることだ。ただし私たちはその構造上、自らの顔を直視することは出来ない。対外的に「自分」を「他」と区別する最も象徴的な部分であるにも関わらず。鏡を利用することによって二次的に眺めることはできるが、それは左右が反転されていることに加え、(これは経験的な推論に過ぎないが) 何らかの希望的な作用(無意識のキメ顔や自己補正フィルターのようなもの)がはたらいた結果の空想の姿とも言える。
ならば手はどうだろう。手のひらを目前に掲げ、握ったり開いたりを繰り返す。多くの情報を感受するだけではなく、脳からの指令を受けて自在に形を変えるそれを見つめる(恐らくそこには何らのバイアスも働いていない)度に、私は紛う事なき「私自身」を見出す。或いは私にとっての「私」の実在を客観的に担保する最も象徴的な部分なのかもしれないとさえ考える。
一体何の話をしているのか。手のひらを通じて無自覚になりがちな「私」の生を再認する瞬間に、何度でも新しく生まれるような、そんな感覚を憶えるなぁ、的な。
( negative pop 「はじまりは手のひらに」より )