はじまりは手のひらに
January 2, 2022誰でも一度は見たことがあるかもしれない、カナダの脳外科医ペンフィールドのホムンクルス(こびと)のからだの各部分の大きさは、大脳皮質運動野、体性感覚野の相当領域の面積に対応する形でそれぞれ描かれている。その姿は顔(目、口)と手がアンバランスに発達した化け物のようであるが、人間の身体の中でも非常に多くの神経細胞がこの2カ所に集中している(重要性が高い)ということが分かる。
さて、私たちが「自分」と言う存在を客観的に認識するのに最も確実な手段は、視覚によって自己を認めることだ。ただし私たちはその構造上、自らの顔を直視することは出来ない。対外的に「自分」を「他」と区別する最も象徴的な部分であるにも関わらず。鏡を利用することによって二次的に眺めることはできるが、それは左右が反転されていることに加え、(これは経験的な推論に過ぎないが) 何らかの希望的な作用(無意識のキメ顔や自己補正フィルターのようなもの)がはたらいた結果の空想の姿とも言える。
ならば手はどうだろう。手のひらを目前に掲げ、握ったり開いたりを繰り返す。多くの情報を感受するだけではなく、脳からの指令を受けて自在に形を変えるそれを見つめる(恐らくそこには何らのバイアスも働いていない)度に、私は紛う事なき「私自身」を見出す。或いは私にとっての「私」の実在を客観的に担保する最も象徴的な部分なのかもしれないとさえ考える。
一体何の話をしているのか。手のひらを通じて無自覚になりがちな「私」の生を再認する瞬間に、何度でも新しく生まれるような、そんな感覚を憶えるなぁ、的な。
( negative pop 「はじまりは手のひらに」より )