2005夏

北海道胆振東部地震から1週間が経ったある日、引っ越しを控え区役所に用事があると言う妹を車で送り、その待ち時間に母校へ向かった。区役所から歩いて10分程の場所に通っていた高校はあった。夏は終わったが秋が来てるとも言い難い、そんな中途半端な暑さの中、カメラをぶら下げて通学路を歩く。



高校3年生のある日の休み時間、僕は親友Jと校舎の窓から身を乗り出して話をしていた。会話の内容は覚えていないが高3の男子がする話と言えば下ネタか受験の二択だろう(そんな事はない)。大学受験が自分の「将来」を描く契機としてどの程度のインパクトを有するかは人に依るだろうが、受験期は少なからず未来の「在りたい自己」に想いを馳せる時期でもある。僕はふと、窓の向こう側で中庭の芝刈りをしているおじさんを眺めながらこう呟いた。


「あのおじさんは俺らと同じ年の時、将来草を刈っている自分を想像してたんかな?」 


今から数年前に広瀬某がこれと同じ様な発言をして炎上したのを覚えているが、何のことは無い「無敵の10代」が発するストレートな疑問だ。何も考えずに生きてきた普通の高校生が漠然と描く未来は少なくともこれまで通り「そう悪いはずはない」し、軽蔑の対象として見る「こんな大人」に自分がなることなど有り得ない話なのだ。「芝刈りのおじさん」も「音声さん」も親の庇護の下、世間知らずで「明るい未来」しか描けないバカな高校生の想像力を以て未来像とはなり得なかった。自分の未来は華々しく、待ち受ける「リアル」は生々しさを伴わない観念でしかなかった。

「してないんじゃね?わかんねぇけど。」

Jの一言でこの会話は終わり、程なくして鳴ったチャイムを合図に僕らは教室に戻った。


高校生活の中で記憶に残っている場面は幾つかあるが、中でもこの短いやりとりを時々思い出す。それは自分がその問いを発した瞬間に、それがいつか皮肉なブーメランとなって自分に返ってくる可能性を感じたからでもあった。休み時間で賑かな校内とは対照的に中庭に響く乾いた芝刈り機の音と、刈られた夏草から立ち込める青臭い匂いを今でも鮮明に覚えている。



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